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XVL対談|芝浦工業大学 × ラティス・テクノロジー

2025年3月11日

2025年
3月

失われた30年の原因はIT分野と女性活躍の遅れ
~その処方箋は何か?

今回の対談では、芝浦工業大学の客員教授を務める國井秀子様をお招きし、キャリア、日本のIT業界、そして女性の活躍についてお話を伺いました(國井様は、株式会社リコーでソフトウェア研究所の立ち上げに携わり、芝浦工業大学で教鞭を執るほか、数多くの企業で社外取締役を歴任されてきました。現在は、株式会社INCJの社外取締役、一般社団法人日本MOT振興協会の副会長、「女性の活躍舞台づくり委員会」の委員長を務められ、また、情報処理学会および電子情報通信学会のフェローとしてもご活躍されています)。

芝浦工業大学 客員教授・株式会社INCJ 社外取締役 國井様とラティス・テクノロジー株式会社 代表取締役社長 鳥谷

鳥谷:
國井さんは私の新入社員時代、株式会社リコー(以下、リコー)のソフトウェア研究所に配属されたときの初めての上司でした。リコー時代の15年を含め大変お世話になりました。最初にお会いしてから40年は経ったでしょうか。IT業界も大きく変化しましたがその間、キャリア女性のロールモデルとして國井さんは、産業界やアカデミック分野で先駆的なご活躍をされましたね。どのようにしてキャリアを築いてきたのか、まず、自己紹介からお願いできるでしょうか。

國井:
私が大学に入学した1960年代は男女雇用機会均等法もなかった時代で、女性が活躍できる仕事と言えば、教師や医師、看護師というイメージでした。しかし、自分に向いていると思えなかったので、まずは基礎的なことを学ぼうとお茶の水女子大学(以下、お茶大)物理学科に入学、流体力学の道へと進みました。当時大気拡散の研究を行っていたのですが、研究費も少なく風洞(ふうどう:人工的に小規模な流れを発生させ、実際の流れ場を再現・観測する装置ないし施設)を自分で作るところから始めました。

鳥谷:
私の中の國井さんのイメージはデータベース(以下、DB)の研究者です。なんと、実験のための風洞を作っていたのですか!

國井:
はい(笑)、作業は大変でしたよ。私の時代、義務教育ですら性別役割分業の考え方があり、機械などに余りなじみがなかったのですが、旋盤を使ったり、電子回路を作ったり、いろいろやりました。流体力学において風洞実験は重要です。その後、米国に留学したとき、私が在籍した研究室がNASAのラングリー研究所のためのエンジニアリング・データ管理の研究をしていて、そのプロジェクトのリサーチアシスタントをやっていたのですが、風洞実験の経験がここで活きました。

鳥谷:
若いうちの苦労は、何がどこで役に立つかは分からないものですね。確か学生結婚でしたよね。

國井:
私は、修士課程1年の時に結婚しました。実験系の分野で、子育てをしながら修了した人は過去誰もいない、と言われましたが、周りにも支えられ、休学なども交え無事終えることができました。そんな中、夫がシリコンバレーに海外赴任することになりました。

鳥谷:
國井さんの伴侶で、私の恩師でもある國井 利泰 先生は、東京大学(以下、東大)に情報科学科をつくられて、私もそこで学びました。その頃のシリコンバレーはIT最先端でしたね。國井さんは、シリコンバレーでITに触れたのでしょうか。

國井:
夫がスタンフォード研究所の客員研究員をしていた時、たまたまLISP(リスプ:関数型プログラミング言語)のプログラミングマニュアルがテーブルに置かれていて、それを手に取ったのが専攻を変えるきっかけになりました。日本でFORTRAN (フォートラン:科学技術計算に向いた手続き型プログラミング言語)を学んだことはありましたが、その時は専攻を変えたいとは全然思いませんでした。しかし、LISPをみた時、これは面白い分野だと大変に感動したことを覚えています。子供は近くの保育園に預け、サンノゼ州立大学の学生となりました。社会人向けの修士コースで早朝と夜間の授業に出て、昼間は学んだばかりのプログラミングの技術を活かして、スタンフォードでアルバイトしていました。大学は、人種も年齢も幅広く、それこそダイバーシティに富んでいましたし、周りにAIのジョン・マッカーシー先生など著名な方々が多くいらっしゃいました。この時の経験は、後にいろいろ役立ちました。

鳥谷:
サンノゼ州立大学では、電子工学科で「コンピュータ&インフォメーションサイエンス」の修士号を取得され、その後も米国で学ばれましたよね。

國井:
当時日本には、コンピュータ・サイエンスの博士課程がありませんでした。いろいろ調べている中で、テキサス大学のオースティン校が良いよと勧めてもらい、再度渡米することになりました。結果としてアメリカの二大IT拠点となったシリコンバレーと、オースティンで学べたことは、その後の人生に大きなプラスになりました。

鳥谷:
國井さんはその後、DBを研究し、グラフデータモデルで博士号を取りますよね。

國井:
当初、ソフトウェアエンジニアリングを学んでいたのですが、1年でテーマをDB分野に変更ました。博士論文として、グラフデータモデルとそのデータ操作言語を提案しました。最近、SQL(エス・キュー・エル:データベース言語)でもグラフデータモデルが標準化されたというニュースを聞きました。

鳥谷:
その後、グラフデータモデルの考え方は、リコーで開発した『G-BASE』というDBシステムの中で実装しましたよね。ところで、研究者の道からどのようにリコーに入社することになったのでしょうか。

國井:
母が重病になったので、博士号を取得する直前に日本に帰国し、1982年にリコーに入社しました。入社した際に、当時の社長が管理職の方々に私を引き合わせてくれたのですが、「この人は女性ではないから」と紹介されたことを覚えています(苦笑)。

鳥谷:
当時の典型的な女性とはまったく違う雰囲気を醸し出したのでしょうね。それにしても、The昭和ですね(笑)。リコーにも管理職の女性はいなかったのではないでしょうか。

國井:
入社当時、女性管理職は私一人だけで、10年近くはその状態でした。その頃は、新入社員の研修内容も女性と男性で異なるという時代でした。

鳥谷:
そんな男性優位な時代に、リコーで足跡を残す仕事をなすことができたポイントはどこにあったのでしょうか。

國井:
当時リコーは技術動向や競合のゼロックス(Xerox Corporation)などを見て、ソフトとネットワークが重要だと認識していました。そのため、アメリカでソフトウェアを研究してきたことが評価されたと思います。デジタル分野の人材や研究開発の重要性が理解され、東大の近くにキャンパスフロント研究所のような組織を設立、色々とチャレンジさせてもらえたことはラッキーでした。

鳥谷:
入社早々だった私も、当時1億円もするミニコンピュータ『VAX11』の稟議を書いて発注していた記憶があります。考えてみると、よくもこんな高額の発注ができましたね。

國井:
コンピュータは高価でした。検討の結果、VAX11が良いということで発注の承認をしたのですが、先方の営業が女性にそんな発注権限があるはずないと、私の上司の上司に対して夜討ち朝駆けの営業をする、というようなこともありました。当時はそのようなことが数知れず、部下と客先に行っても、秘書と思われて外で待たされるというようなこともありました。

鳥谷:
まだ、産業界で活躍する女性が、ほぼいなかった昭和の時代の空気を感じます。國井さんは、その後、ソフトウェア事業部を立ち上げて、数々の人材を輩出しますね。事業部立ち上げの狙いは何だったのでしょうか。

國井:
当時のリコーの営業部門では、内製のソフトに対する信頼が低かったこともあり、自社で開発したDBMS(データベース管理システム)である『G-BASE』は、販売認可待ちの状況が続き、開発から1年ほど経っても認可が下りませんでした。そこで、ソフトウェア事業部を設立し、G-BASEをUNIXに移植して、外部に直接販売しようとしたのです。

鳥谷:
G-BASEはその後、DB製品からソリューションビジネスの中核へと舵を切りますよね。製品とソリューションの違いはどこにあるとお考えですか。

國井:
DBMSはデータ管理のための基本ソフトで、ソリューション開発のプラットフォームです。ユーザは、直接使うことも出来ますが、通常はDBMS上にアプリケーションを開発します。この開発を自ら出来るユーザは限定されます。一方、ソリューションは、まずユーザの要求を把握し、DBMS上にそれを実現するアプリケーションを開発、あるいは、既存アプリケーションを選択して必要なパラメータ設定をするなど一般のユーザが活用できるようにします。そこはDBMS製品のみのビジネスとは大きく異なります。DBMSがまだ十分普及していない時代、新規参入の私たちにはユーザとの直接の接点がないと事業開拓が難しく、ソリューションを手掛けることで前に進むことができました。

鳥谷:
当時は私も、DBMSの考え方を大学で勉強して入社したのですが、その重要性が認識され始めたのは、日本にオラクル(Oracle社が開発・リリースしているOracle Database)が入ってきてからでしょうか。G-BASEのビジネスも最初は苦戦していましたよね。

國井:
DBMSもあまり知られていなかった中、コンセプトも理解してもらえず販売も苦戦し、企業のR&D部門などに、いくばくか売れたという状況でした。一方、ソリューションは、戦力的に特定の分野のみの取組ですが、それなりに評価されました。ところで、後から聞いた話ですが、日本ではリコーがG-BASEを販売しているから、オラクルは日本市場では苦戦するであろうとおっしゃった米国の経営者がいたそうです。残念ながら、そんなことはありませんでした。開発提案書に書いた市場規模予測は当たっていましたが、プラットフォームであるDBMSを販売するには、マーケティング力が全くありませんでした。

鳥谷:
マーケティングが弱いのは現代に至るまで日本のIT企業の課題ですね。私もリコー時代から、今のラティスに至るまで、常にマーケティングは意識して力をいれておりますが、なかなか思ったような成果はあげられないです。特に海外が難しいですね。

國井:
目に見えないソフトウェアのマーケティングは難しいですね。いろいろ苦労もしましたが、研究者がお客様に直接営業するというのは素晴らしい体験でした。お客様から直接フィードバックしてもらえるのが非常に新鮮で面白かったですね。

鳥谷:
お客様に直接営業することの素晴らしさは、私も日々感じております。リコー時代で印象に残っているのは、当時からお客様志向の文化が根付いていたことです。当時の社長が、「お役立ち」という言葉で、常にお客様に役立たなければと口にしており、ラティスでもその精神は引き継いでいます。

國井:
たしかに、お客様に役立たなければ意味がないという文化は、リコーで脈々と受け継がれていましたね。

鳥谷:
私は國井さんが上にいてくれたおかげで助かったことがたくさんありました。ちょっとややこしい提案も國井さんに相談したら、すぐに通ったということもありました。研究者がチャレンジしやすい環境を整えてくださいましたよね。1980 年代にシリコンバレーのような研究所が日本の製造業の中にあったことは、今から思えば驚愕です。

國井:
研究開発をしなければ生き残れないという危機感が強くあり、また、変わり続けなければという感覚が常にありました。私はできるだけ研究所のメンバーが自由に考え働ける環境を整えるよう心掛けていました。今では笑い話ですが、当時、ソフトウェア研究所は服装からして遊んでいると批判されていましたが、研究所のロッカーには大、中、小のスーツを用意していて、本社に行くときには、それに着替えていくようにと言っていました。

鳥谷:
一度本社に短パンで行ったときには大目玉を食らいました(笑)。研究所の風土は、まさしくシリコンバレーのようでした。私自身はそこで3Dの研究を始め、「DESIGNBASE」というソリッドモデラの製品開発をし、それがラティスの3D軽量化技術の『XVL』へとつながっていきます。研究、開発、マーケティング、営業、海外企業との提携と企業経営に必要なすべてを体験させていただきました。これも國井さんのおかげと感謝しております。

さて、國井さんはリコーで常務執行役員まで務め、リコーソフトウェア(現 リコーITソリューションズ)株式会社の会長から、芝浦工業大学(以下、芝浦工大)へと転身を遂げられたわけですが、どのようなきっかけがあったのでしょうか。

國井:
当時、女性の管理職が珍しかったこともあり、社外の色々な委員会にお声がけいただいて、そこで人脈を広げることができました。そういったご縁もあって、リコーを退任する頃、当時の芝浦工大の学長から誘われました。

鳥谷:
大学ではどのようなことを教えられたのでしょうか。2012年ともなると、大学では女性がかなり活躍していたのでしょうか。

國井:
工学マネジメント研究科で、主に社会人学生に研究開発マネジメントやITビジネス、ダイバーシティ推進などを教えていました。当時は、女性の教員が圧倒的に少なく、男女共同推進室長として、女性の活躍推進の活動も行っておりました。私が入ったころは、7%程度であった女性教員が、その後20%ぐらいにはなりました。

鳥谷:
ラティスでも苦労しているのですが、どうやって女性の活躍の場を広げてきたのでしょうか。

國井:
推進組織ができた早い段階で、全学の男女共同参画シンポジウムを開催して、大学のトップである理事長や学長にお話しをいただき、また、各学部長からも女性教員比率向上に関して思いを語っていただきました。全学的に重要な活動としてアピールできたことは、大学としての決意を示す意味でも良かったと思っています。とりわけ学長のリーダシップが重要です。男女共同参画室が特に注力したのは、当時、女性教員が一人もいない学科が結構あったので、私はその状況も逐次公表するようにしました。その傍らで、女性が少ない学科の状況を分析し、サポートもしました。当時は女性の候補者自体も少なく現場も苦労していました。

鳥谷:
女性枠のようなものは設定したのでしょうか。

國井:
特に女性の枠を設けることは、当時はしませんでしたが、ポジティブアクションとして、男女の候補者が同じ能力であれば、女性候補者を残すようにお願いしました。色々と施策を重ねていく中で、芝浦工大の大学ランキングがあがってきました。

鳥谷:
ところで、國井さんは名だたる企業の社外取締役もいくつも務めてこられましたよね。そちらはどのような経緯で就任されたのでしょうか。

國井:
私の講演などを聞いた方からお声がけいただいたことがきっかけとなりました。私は、日本の失われた30年の大きな要因として、IT分野と女性活躍の遅れも大きいと考えています。

鳥谷:
失われた30年の要因として、不良債権問題だ、デフレだ、少子高齢化だ、年功序列だといった要因は上がってきますが、女性の活躍の遅れという視点はなかなか斬新ですね。

國井:
人口の半分の能力を活かしきれていない。また、女性や異なる分野の人が加わることで議論が活発化、多様化し、変化を起こしやすく、イノベーションが起こりやすい環境が作られると思います。ただし、その際メンバーが対等に話し合えること、育成環境も格差がないことが前提になります。意識的に女性を排除しているというわけではなくても、現状を異常だとは思わない人が多いのは、非常に残念です。ところで、対等ということは企業間でも重要です。下請けではなく、対等なパートナーシップの関係という風土が日本では十分育っていない。それでは、成長のエコシステムがなかなか構築できないです。

鳥谷:
働く女性は増えてきましたが、まだまだ日本での女性の活躍は限定的ですよね。この原因はどこにあるとお考えでしょうか。

國井:
性別役割分業などいろいろありますが、私は、とりわけ技術系の女性が少ないこと、特に製造業で少ないことが問題だと感じています。OECDの中でも女性の進出率で、日本は最下位。女性は、理工系で劣っているという偏見がまだかなり残っていて、人材を輩出するパイプラインが偏っているのではないかと思います。

鳥谷:
単発ではなく、パイプラインで供給することは重要ですよね。國井さんが社会に出られた時に、女性のロールモデルがなかった。現代の女性の働く環境という観点では、いかがでしょうか。

國井:
女性のロールモデルも少し出来てきて、以前よりは活躍しやすい環境にはなっているでしょう。やはりロールモデルがあるとイメージがわき、進みやすいでしょう。

鳥谷:
ロールモデルのない時代に、國井さんはなぜキャリアを積み上げることができたのでしょうか。

國井:
結果としてですが、私は選択した道がとても良かったと思っています。まず専門分野がニーズの高いITです。そして、私は女子大で、リーダシップを学ぶことができました。共学の大学では、女性はどうしても男性のサブになりがち。女子大にいるとサブに回るという感覚もありません。女子大出身で活躍している人材が多いのは、そこに理由があるのだと思います。

鳥谷:
なるほど。女子大では女子がリーダーにならざるを得ない。すると女子もリーダーとして活躍する、それが社会に出ても継続するというわけですね。男性の方が自信を持っているというのは、そういうロールモデルが出来上がっているということなのでしょう。

國井:
Facebookの元COOのシェリル・サンドバーグも『リーン・イン』の中で語っていましたが、色々なチャンスを生かすことが重要です。自信がないぐらいでもやった方が良い、一歩前に出てトライすることが重要です。

鳥谷:
そういう唯一無二の國井さんを形作ったものは、一体何なるのでしょうか。

國井:
まず、お茶大時代に、社会変革への意識が高くなったことは大きかったと思っています。そして、シリコンバレーでの「まずトライする、失敗を糧としてさらにチャレンジする」文化を学びました。日本はその反対で、失敗しないように立ち振る舞うことが文化となっています。新しいビジネスモデルを作っていくのには、トライアンドエラーが必要です。

鳥谷:
國井さんのキャリアをつくるうえで、人との出会いも重要だったと感じます。女性と人脈という視点ではいかがでしょうか。

國井:
女性も社会で活躍するにはネットワークを持つことが重要です。その一方で、育児などもあり、なかなかネットワークを築くことが大変だったというのも率直なところです。プライオリティを付けながら、ネットワークを作ることにもリソースを振り向けることができればと思います。あと、小さな会社や新規事業で働いた方が一通り経験しやすい。やはり経験しないとなかなか判断できない。私は学生時代に小さな会社を起こしています。

鳥谷:
人脈と経験はキャリアを積むのに重要ですね。さて、日本の産業、特にソフトウェア産業が、失われた30年を乗り越えて力を取り戻すのには何が必要でしょうか。

國井:
芝浦工大でMOT(Management of Technology:技術経営)を教えていて改めて感じたのは、未だに日本の産業全般にソフトウェア分野が弱いということです。ソフトウェア人材の育成は一朝一夕ではできません。海外人材の活用も重要ですが、日本のなかでも優秀なソフトウェア人材を育成するエコシステムの強化を図っていくことが必要です。

鳥谷:
今年から大学入学共通テストに情報科目が加わったという前向きのニュースもありますが、日本の大学での情報の専門教育を受けた絶対数が少なすぎるという問題はよく聞きます。

國井:
東大の理学部情報科学科の定員はずっと15名でした。一方、米国の主要大学では、千人規模でした。また、私がアメリカにいた80年頃、ソフトウェア分野に、インドや中国のみならず、韓国からの留学生もどっと増えました。とりわけ、博士課程においては、アメリカ全土をみても、片手で数えられる程の日本人しかいませんでした。教育の問題は効果が出るまで十年単位でかかります。

鳥谷:
教育の仕組みを変えるには膨大な時間がかかりますね。リカレント教育という視点ではいかがでしょうか。

國井:
日本でもリカレント教育の重要性が昨今指摘されていますが、海外と比較してリカレント教育の桁、厚みが違います。数年前の調査ですが、IT分野だと人数が海外では20%以上、日本では2、3%です。この分野は日々進化しているので学びが重要です。

鳥谷:
國井さんの視点はいつも広くワールドワイドですね!話は変わるのですが、私はソフトウェア研究所時代、『DARATECH』というCAD業界の重鎮を集めたイベントに毎年のように参加させてもらったことが、今の3Dのビジネスに繋がり大いに役立っています。当時その場に出席していたのがダッソーや、SDRC(後にシーメンスに統合)、AutodeskなどのCEOで、各社にネットワークをつくることができました。

國井:
期せずしてそのように役立っているのであれば大変良かったです。日本の中でもフォーラムのようなものを開催して、多種多様な人材が交わるような機会を作れば良いと思っています。最近そういった動きもあるようですが、海外と比べるとまだまだ少ないです。地方であってもグローバルな取組ができる時代になってきています。

鳥谷:
最後にラティスに対するメッセージをいただけないでしょうか。

國井:
日本は、DXが全般的に遅れていますが、とりわけ製造業のDXは日本経済の発展に向けて重点課題です。そういう中、鳥谷さんの最近の著書『製造業のDXを3Dで加速する』(幻冬舎)では、現場の状況を踏まえた現実的な方向が提示されています。そして、ラティスは、製造業のDXを効率的に実現するためのキー技術を提供していると思います。ソフトウェアの可能性は、今後さらに広がっていきます。博士号を持つ人が率いる技術力の高いIT企業は日本にはまだまだ少ないですから、是非、日本のIT企業のロールモデルとして今後さらに大きく成長して欲しいです。また、若い開発者の方も女性の開発者も元気に働かれていると聞いています。多様性のある魅力的な職場としてのモデルにもなってほしいと期待しています。これからも失敗を恐れず色々とチャレンジしていただければと思います。

鳥谷:
第一線でご活躍され続けてきた國井さんのお話をしっかり伺うことが出来、実り多い時間でした。ラティスの社員のみならず、これから社会で活躍の幅を広げようと考えている女性の方、日本への熱いメッセージをいただきました。本日は、大変ありがとうございました。

END

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